- 先日、ある集まりで。
「あの人は何でもすっごい早くて、ブログとかも200X年くらいにはスタートして……うんぬん」
「ネットでいろいろ結び付ける的な……云々」
「新しいサービスをどうのこうので、D社にも……うんぬん」
「でもそこで当たるかどうかっていうのは……云々」
「ぜーんぶ早いんですけど、ぜーんぶ……うんぬん」つまり、「あの人」はいろいろ新しくて感性スルドくてステキなんだけどあんまり商売になってないんです残念、という感じのクダけた会話です。ポジショントークともいえるし、そういう方面へ出かけるとよく見かける立ち位置からのコミュニケーションの気もします。「D社」も、普通に電通って固有名詞で言うんじゃなくて、文字通り「D社」って発音する感じ。あるいは、同じような立ち位置の人を呼ぶのに「XX先生」ってつけて言うみたいな、そういう雰囲気。ううむ。
- もう自明のことではありますけど、ネット上のサービスは圧倒的に実力主義です。人々の知覚がどれだけ集まってどれだけ遷移していくらお金が動いて、という経緯が全部数値化される環境では、何が強くて何が弱いのか、どこに波が来ていてどこは干からびているのか、はっきりとわかるようになってしまっています。で、トランザクションが集まるところ、強いところ、波が来ているところが商売になります。そうでないところは商売になりません。
- 商売になるところにだけ、ヒトとカネとモノが集まります。これは不思議なもんで、集まるところには全部集まるし、集まらないところには何にも集まりません。なるべく勝ち船に乗りたい、なるべくリスク負いたくないというのがみんなの本音とはいっても、ちょっと露骨すぎねえか、というレベルではっきりしてしまいます。これはもう、インターネット社会の功罪ですね。いままでであれば社会総体の中にたくさんあったはずの、なんとなくの遊び、バッファとして動いていた部分がどんどんそぎ落とされてくる。ある種、「本質原理主義」とでもいうべきような狂信性をもって。このバッファや余裕によっていろんなところでマネタイズのチャンスがあったこれまでの社会に比べて、チャンスは明らかに少ない。
- マージン x マージン x マージンの2次請け、3次請けなんていらないよ、とフラット化した地形をコスト圧縮な観点で語るのはもちろん理にかなっていることです。しかし社会総体でみた場合、それによって食えていた人たち、つまりカネとモノが動くことによって食えていた人たちは淘汰されてしまいます。
- でも、たとえばいままで10人でやっていた仕事を1人でこなせるようになったとしても、10人の生産性の合計はどうしても100人分にはならないわけです。これいらない、あれいらないって順番に消していったら、そもそも世の中のお金の流れがほとんどなくなっちゃいました、なんて方向に行く可能性だってじゅうぶんある。なんせほら、ものの本によれば今の情報の量って10年前の400倍くらいあるらしいのに、いまだにまっとうなマネタイズの方法を誰も編み出せてないわけですし(いまんとこのGoogleをのぞく)。
- そういう時代にあって、「消費の時代は終わった。生産を模索すべき」というのは、ヒトとして個人として、人間として、正しい方向性なんだろうと思うわけですね。