偶然性の背後に自分を感じた

「どうせおまえはテキトーなのであるから」という理由でご実家を出る際になぜかトマトを持たされ、さてどうしたもんかととりあえず冷凍してみた 2 週間前のわたくし。
消費のペースを間違えて冷凍庫がパンパンになってしまい、せっかくの加ト吉うどんが収納できない!四国在住のころに「あれはアリだね」と地元の方に指南されて以降、「加ト吉うどんは香川でもアリ」と刷り込まれているわたくしとしては、収納したい!いつでもチンできるようにしたい!と対策を練り、どうトマトを取り扱うか会議を緊急招集、「冷凍だと擦りやすいらしいよ」という結論に至り、手にトマトを張りつかせながらピューレにしたのが 2 日前。
おなじく冷凍庫内で鎮座していた鶏肉を取り出し、お手製ピューレを煮立たせながら、コンソメと赤ワインを加えた 500 円の雪平鍋に投入することしばし。なんか自分でも信じられないくらいのお味に仕上げることができました。
これが一方で、ちゃんとレシピを DS あたりで読み上げさせつつ、材料はボールに分け、なんてことをやっているとたぶん大した味には感じないんだろうなあ、と思うと、人間の知覚っていうのは全体的に何か別のところに支配されているんじゃないだろうか、といった気分になります。