インターネット。の続き

深夜に知覚的にけっこうしんどくなって、私的には Frank Chickens の “We Are Ninja” を CD 化してくださったという点において最大級の神ランカーな掟さんの説教に救いを見出そうとしていたところに、スラドのこのエントリー。なにこのシンクロニシティ。

インターネットによって私たちの知的能力は低下している?
http://slashdot.jp/it/article.pl?sid=08/06/11/0621247

私が Perfume に感激するのは、小学生時分からビラ配り並の下積みを経てきたんであろうたくましさを感じられる(様な気がする)からであり、避け続けたカーナビをとうとう購入したのは、覚えている道の「渋滞情報」という私にとっての未来を得られると知ったからであり、インターネットが好きだったのは「なんで?」「なんだこれ?」という疑問の答えにいたる材料を見つけやすくなったからであって、流行ってるから好きとか、道を調べなくて済むからとか、手軽に考え方そのものが得られるからとかではないのです。

「最初から Google があった世代」が育ってきたとき、何が起こるのでしょうね。なんというか、自分の商売を超えて、言葉にできない大きな不安を感じています。インターネットは、マスゴミがどうとかって以上に、すでにモンスター化しているような気すらするのです。

90年代前半のテクノやハウスの爆発が収束に向かったとき、「少しでも良い点があればそれを評価したいと思う、でも、いまはひどすぎる。リサイクルできるゴミのほうがまだましだ」という評価がなされた時期がありました。「そして誰もいなくなる」直前、拡散して拡散して、本当にカスの連続になってしまった時期があったと記憶しています。なんか、あの頃と同じ匂いを、鼻先に感じる瞬間があるのです。

でも、ハイプだらけの音楽シーンの根っこで同じことを感じている人が世界中にいて、「でも、いいものだってあるぜ?」と教えてくれる人が遠い国にもいる、と経験したとき、私はインターネットに希望を感じました。hyperreal.org が一方で “IDM” なんてハイプっぽい言葉を新たに生み出したからと言って、あの頃に有機的な知覚の交流があったこと、私自身の実体験は、そうそう忘れられるものではありません。

石原知事は「ああいう人間っているよね。ただ、ああいう形で爆発するかしないかってのは、時代も背景にあるんでしょうけど。みんな鬱屈(うっくつ)してるよ、今の日本人は」と吐き捨て、「文明の便宜が進んでも、人間はやっぱり芯(しん)は孤独になっている感じがする」と語った。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080610/crm0806101540028-n1.htm