Be Here Now.

温故知新。

この先は本当に楽しくなりそうですよお前ら。

7 年ぶりなはずなのに昨日からの続きのような会話へすっとなじめるのは、それだけそれぞれの距離が近く、かつ時間の経過によって変化した部分が少ないということなのだろう。本当に久しぶりのはずなのに、なんのてらいもなく接せられるというのはうれしいものである。

ネクロフォビアのような 90 年代に思春期を過ごし、その集成としてニート兼引きこもりな時期も経験し、失業保険の給付申請に出かけるのすら憂鬱だったこともある私にとっては、時代の閉塞感とか鬱屈とか、バブル世代でようやく終焉を迎えたと思われる戦後成長路線の発想で生きてきた連中の総体的この先どうしましょう感とかって話は、あえて言葉にするまでもない前提の話だ。その前提を踏まえて社会があって私たちがこの時代に生きている以上、私たちがなすべきことといえば、どうしたって希望を紡いでいくこと以外にあるまい。”Construction Time Again” なわけだよ。

むろん、理想郷を探していくべきとか、妄想に浸ろうなんて気は全然さらさら毛頭ない。たとえば私は本当に昔からヒッピー文化には嫌悪感をもって接してきたし、それはなぜかといえば連中は一瞬だけ輝いた後に排他性とともに自家中毒を起こすからだが、それに対する最大のカウンターといえば、勤勉に働くことなわけだ。そんなことねえだろお前もジョインジョインツよ、というのは何も生み出さん。別に止めはしないし、人様に関係ないところで好きなようにラリってていただきたいわけだが、アルプス一万尺ばかり歌い続ける人生というのも生産的ではないだろ。つうか税金払え。

思えば私は人から情報を受け取り、それをまた別の人に伝えるというところを生業としているのであり、今後いろいろに場所や形態を変えるとしてもその本質はこの先もそのままであろうし、それに対して何のてらいもないというものだ。結構な人々に出会い、結構な感化を受け、結構な物事に触れてきて、ある程度の会話だけでも相手がどの程度の深度を持っているかくらいは図れるようになってきた。そして今後も引き続き一つ一つやっていけばいい、それによって何かがつみあがっていくのだとすれば、こんなに幸せなことはないな、と思いを新たにしたのである。